自分の今を正直に今コノカタチ

顔デ笑ッテ心デ泣イテ手足に膿疱出来ちゃった!

リーキーガットと夏野菜(2)

夕食に作ったサラダは
・トマト
・オクラ
・サニーレタス
この3種類だけ。
でもトマトを切った時に痛みがあったし、食後数時間でそれまで特に赤みや膿疱もなかったのだから、トマトが影響していると考えて間違いないと思った。

ある方のブログにヒット!
≪ナス科の毒素は甘くない!≫
知らなかったけど、ナスもトマトもピーマンもそしてジャカイモもみんな、
ナス科だったのですね(@_@)

そしてすぐに色んな事が結び付いてしまいました。
きっかけは牛肉からの発症だけれども、夏に悪化すること、どの季節よりも大量にもしくは食べる頻度が多いこと。
とりあえず、ナス、ピーマン、トマトを暫く食べてみないことにした。
ジャカイモはこの10日で、少しだけ摂取を試みている。
2週間前と今現在、明らかに差がある。
いつも皮が剥け終わったとき、このまま治ってはくれないだろうかと、毎回思っているけど、見事にその2日後にはボロボロと剥けてしまう…。
ただ今回は手応えを感じている。

他にも気になる記事があった。
「リーキーガット」
海外ではグルテンフリーと同じくらいの認知度があるみたいだけど。
これについてはまたもう少し状況観察して投稿したい。f:id:ruki24812-m2:20180820234634j:plainf:id:ruki24812-m2:20180820234704j:plain

リーキーガットと夏野菜(1)

立秋を過ぎても暑い日が続く…。
と、書きたいところだったけど、この数日とても過ごしやすい気温と天候。
ただこのまま秋に突入というわけにはいかないようだけど。

片付けを急ピッチで進め、新盆も無事に済ませ今日が夏期休暇の最終日となってしまった。
明日の支度を終わらせてちょっと腰を据えて手足の状態と向き合ってみたいと思う。

前回の投稿から2ヶ月半、ショーセキの範囲は徐々に拡大し左足は土踏まずから踵まで、右足は土踏まずと外足部まで広がっている。
画像も時々残しているが、3日に1度は全面剥け変わってしまうため、乾燥防止の湿潤ローションやクリームを塗る時間がかなり必要。
一進一退…そんな言葉とともに時には気分が滅入ってしまう。

そんな状態が続くなか、約10日前の夕飯支度の最中にサラダ用にトマトを切って一分皮を剥いた。
中玉を3個ほど切り終えたところで、急に手に痛み(傷口に染みる感覚)がでた。
足に比べて掌や指、ツメはショーセキに犯されていないし、主だった傷もないのに。

その日の夜、夕食を取って3、4時間たった頃、てのひらの何ヵ所かに膿疱が出来掌が紅くなってしまった。
何かがいつもとおかしいと感じたので、思い浮かぶ全ての事柄をネット検索した。

ボロボロ…。からの気付き。

何とも憂鬱。
梅雨入前の好天だけど、何かと忙しく、家事が疎かになってる。

もっともフルタイムワーカーとしては、これまでも家事は週末にまとめて片付けて居たわけだけど、この半年はその休みも両親との時間に充て、祝儀不祝儀も済ませてきたから家の中が荒れてる。

一区切りついたとはいえ、独り暮らしになった母に、以前のようにたまに電話連絡、というわけにもいかず、平日も週末も時間をやりくりして訪問する。
ゆえに様々なエネルギーの消耗も激しく、最低限の家事だけだと散らかったまま…になってしまう我が家。
落ち着いて腰を据えて丁寧に片付けをしたいと思うけれど、体が付いていかない。

心身ともにやる気が起きない憂鬱の最たる原因は家の中よりも荒れ果てた足裏。
過去最悪の状態で、時には歩くことさえツラくなる。
歩き方も変わってしまうので、恐らく色んな体のバランスを崩していて、膝だの腰だの様々不調。

1)分からなくてなってしまうこと
2)分かっていながらしてしまうこと
3)わかっていたけど大丈夫かもしれないとしてしまうこと

1は発症するまでの自分、2は一昨年のクリスマス。3は今年の正月
全て自分が引き起こし招いた結果なんだと己を知る。

比較することはよくないことだと思う。ただ、当たり前とか自分は大丈夫とか、何か棚にあげて正当化してきたというか、おごりとまではいかないけど、ちゃんとしてしているつもりでいた。今までは。

普通の体に産まれて、子供の頃は体が弱かったけれど、大人になって無理もしたけど、若さでカバー出来てた部分も有ったということに気付き、食物や睡眠、運動とバランスよく生活してきたんだけどね。

でね、不思議といつもそうなんだけど、ブログを書くときは自分のブログなんだし、愚痴とかボヤキとか叫びとか書いてるんだけど、段々主旨が変わってきちゃう。

今は、最悪の状態の足裏。
見るのも歩くのもツラいんだけど、自分が引き起こしたこの状態と体の変化をどう消化して、何を学ぶかって与えられ教えられているんだと思う。
微々たる自分の状況が
様々な人の気持ちに寄り添う事が出来るように、自分の足りない部分を教えられているんだと思う。

「感謝しかないんだよ」
私の大切な整体師ご夫妻が常に言っている言葉。
またひとつ分かったように思います。
有難うの言葉、独自解釈かな、本当にそうだといいな。
難が有る、難有ることに本当の意味をしり、感謝する。
謝り感ずる、その意味を探しに行こう。

※またまた画像添付できす。
chromeに問題発生…。」ってなんでやねん(-_-;)

一区切り

突然の事故…。
とは言っても事故は大概突然だ。
でも、父の場合回避は出来たはず。
本人が気をつけていれば、家族の注意に耳を傾けていれば。

頼んだ外出ならどんなに悔やんだだろうと母は言った。
自分から出かけて行ったのだから、
本人が1番悔やんでいるだろうと…。

その事故から突然のさよなら。
これは誰も予期していなかった。
キセキを積み重ねて回復していくことだけを、誰もが信じて疑わなかったから。

本当にさよならしちゃったんだね。
諸説色々教えもあるでしょうが、
四十九日とは、亡くなって彷徨える魂が、この世と別れを告げる期間だという。

食べ物を供えても口にすることもできず、何も飲むことも出来ない。
本当に体はこの世に無くなってしまった。ということを解らせて旅立つまでの期間だと。

事故から5ヶ月、祝儀不祝儀が半年の間に有るなんて…。
何とも慌ただしい半年間だった…。
まだまだ宿題はあるけれども、
少しだけ力が抜けた気がする。

あ~あ…。

2か月の間に身内の葬儀と結婚式2つ。
精神的には幸と不幸と喜怒哀楽。
体力的にもお財布的にもかなり厳しい状態ですが、状況悪化は右足の裏。

かなりヤバイ…。
もぅなんでこうなるかなぁ。

まぁ原因が解っているし、その原因を自ら引き起こしてるんだから、誰にも文句は言えないんだけど。

子供のアレルギーは1年で解消されるらしいが、大人は3年かかるらしい。
これは漢方薬局の先生が言っていた。
じゃあ何?3年も体内にとどまってるってーことなのかな、アレルゲンが…。

剥がれかかった皮を剥くなっていうけど、歩いているうちにはがれた硬い皮が、硝子の破片のように足に突き刺さる痛さったらないのですよ。
あーあ…で、トホホ…な、今日この頃。

追記:画像添付しようもんなら(chromeに問題が発生しました)って閲覧注意&禁止なんでしょうか(-_-;)
確かにグロいけど(T△T)

gwzm

前の夜に行っていたならば。
もっと注視していたならば。
諦めさせていれば。
辛いって言ってくれれば…。

そんな想いばかりが頭をよぎって、
何で?どうして?
誰もが現実を受け止められないで居た瞬間だったと思う。

「胸部大動脈解離」

孫の結婚式に出席することを楽しみに、苦しく辛いリハビリを懸命に行う姿は、他の患者さんの目標となり、奇跡を積み重ねていた。

亡くなる前々日に、弟の手を借りながらも、約1分自力で立つことができた。
思わず拍手してその頑張りを讃えた。
事故以前、労いの言葉も、感謝の意も殆ど聞いたことがなかったが、筆談で何度も何度もその文字を見ることができた。

3月21日、彼岸の中日は震えるほど寒く、見舞った私の掌は冷たかった。
降り始めた雪を眺め、子供のような眼で驚いた表情をし、冷えた私の右手を取り、左手は額に置くように促す。
冷えた私の両の手は父の体温ですぐに温かくなった。

事故後、1度も面会に来れなかった高齢の父の叔母と握手を交わし、妹や弟、そして私たち家族とロビーで筆談での会話をしたのが1日の午後。
皆、父の元気な姿を確認し、安心して帰っていった。
まさかその3日後に、誰にもさよならも言わず、見送られずに逝ってしまうなんて…。
格好よすぎでしょう。
いいところだけみせていっちゃうなんてさ。ずるいよ。。。

通夜、葬儀告別式合わせて691人。
たくさんの方に惜しまれ、多くの方々に見送られ、父は旅立ちました。

お父さん、出来上がったよ。
話してたよね、あれ?言ってなかった?結婚式で使うやつ。
指輪乗せるクッション。
リングピローっていうの。
刺繍、分かる?そうそう、糸で絵とか文字とか縫うの。
中学生以来だから苦戦してるんで、出来上がるまで面会の回数減るかもって言ってたよね?
今日、娘夫婦に渡せたから。
お父さんにもらった老眼鏡かけながら、私も頑張ったよ!
当日はちゃんとフォーマル着てきてくださいね。

「はい、はい、わかりましたよ」

そんな父のちょっとふざけたような言い方が聞こえるような気がして…。
どうか無事にその日が迎えられますように、一緒に祝ってください。
お父さん。
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4月4日

私がこの世を去るならば、桜咲く季節がよいと、たた漠然と思っていた。
散り行く桜のように…。日本的ノスタルジーなんだろうか。
暑くもなく、寒くもなく、今は煙も見えないけれど、青空に流れる雲のように、家族に友に、見送ってもらえたら…と。
そんな想いを私より先に父が叶えてしまった。
享年86歳